東京地方裁判所 平成8年(ワ)11543号 判決 1997年12月09日
原告
有限会社きのプロダクション
右代表者代表取締役
今井紀子
右訴訟代理人弁護士
嶋田隆英
同
土肥尚子
被告
大泉建設株式会社
右代表者代表取締役
根本榮樹
右訴訟代理人弁護士
松本憲男
同
吉田正史
被告
東京あおば農業協同組合
右代表者代表理事
八方久雄
右訴訟代理人弁護士
守屋文雄
同
髙川佳子
同
沼口直樹
被告
国
右代表者法務大臣
下稲葉耕吉
右指定代理人
竹内彰
外一名
主文
一 被告国は、原告に対し、金九五万円及びこれに対する平成八年七月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告国に対するその余の請求並びに被告大泉建設株式会社及び被告東京あおば農業協同組合に対する請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告及び被告国に生じた費用の各四分の一を被告国の負担とし、原告及び被告国に生じたその余の費用並びに被告大泉建設株式会社及び被告東京あおば農業協同組合に生じた費用を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。ただし、被告国が金五〇万円の担保を供するときは、右執行を免れることができる。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、原告に対し、各自金四〇〇万円及びこれに対する平成八年七月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、競売に付された共同住宅の一室について抵当権に優先する賃借権を有していた原告が、競落人が共同住宅を取り壊して賃借権を消滅させ、貸室内にあった原告の書籍等を廃棄処分したことについての不法行為責任、原告の占有及び賃借権がないと判断した執行官及び執行裁判所の違法を理由とする国家賠償上の責任、及び競落前の賃貸人が賃借権の存在を適時に執行裁判所に報告する機会を奪ったことなどによる不法行為責任を追及し、書籍等が滅失したことによる財産的損害及び精神的損害並びに賃借権の消滅による損害の賠償とこれに対する不法行為後の日である訴状送達日の翌日から支払済みまでの遅延損害金の支払いを請求した事案である。
二 争いのない事実等
次の事実は、当事者間に争いがないか、後掲の証拠によって容易に認められる。
1 原告は、アニメーション制作を業とする会社であり、実質的なオーナーは漫画家の「木下としお」こと木下敏治(以下「木下」という。)である。
(木下証言、原告代表者本人)
2 原告は、昭和五八年二月ころ、佐瀬初枝(以下「佐瀬」という。)から、一、二階に各四室の貸室がある別紙物件目録記載の建物(以下「本件共同住宅」という。)のうち、別紙図面二階の斜線部分の部屋(以下「本件貸室」という。)を賃借していたが、佐瀬が昭和六二年一月三〇日に本件共同住宅を被告大泉建設株式会社(以下「被告大泉建設」という。)に譲渡したことにより、同被告が本件貸室の賃貸人たる地位を承継した。
(甲一の1、2、甲二ないし四)
3 被告大泉建設は、昭和六三年、被告大泉建設代表者の被告東京あおば農業協同組合(合併前の名称は「練馬農業協同組合」であった。以下「被告農協」という。)に対する二億七〇〇〇万円の貸金債務を被担保債権として、本件共同住宅並びにそれに隣接する建物及びその敷地(以下「本件共同住宅等」という。)に抵当権を設定した。
(丙一)
4 被告農協は、右抵当権に基づき、本件共同住宅等について競売を申し立て、平成六年一月二一日、東京地方裁判所により競売開始決定がなされた。右競売事件(以下「本件競売事件」という。)の現況調査報告書には、本件共同住宅について「全室施錠されていたので、一階を開錠した」こと、「二階については、出入口、下足入れ、便所、廊下を含め、各室を外部から視認したが、靴、スリッパ等もなく、各室とも使用している形跡はうかがえなかった。」ことが記載されている。また、同事件の物件明細書は、賃借権欄が斜線で抹消され、「原告が賃借権を主張するが、差押時占有は認められない。」旨付記されている。 (丙一、丁一、二)
被告大泉建設は、平成七年五月に原告に対して右競売開始決定がなされたことを告知し、同月一五日に執行裁判所に対して原告の賃借権について通知した。
被告農協は、本件共同住宅等の買受人として平成七年九月二八日に同建物の所有権を取得し、平成八年一月一一日に本件共同住宅を取り壊し、同建物内に残されていた動産を処分した。
(丙一、大嶋証言)
三 原告の主張
1 (損害)
原告は、本件貸室を資料室ないし研究室等として利用しており、本件貸室にアニメ作成に必要な書籍(以下「本件書籍」という。)約三〇〇冊のほか、布団二組、机等(以下「備品」という。)を置いて占有していた。被告農協が本件書籍及び備品をすべて廃棄処分したことによって原告が被った財産的損害は三〇〇万円を下らない。また、原告は精神的苦痛を味わっており、その損害は一〇〇万円を下らない。
本件共同住宅の取壊しにより本件賃借権が消滅した損害は、一二〇万八二五〇円を下らない。
本件では、右損害のうち四〇〇万円を請求する。
2 (被告らの責任原因)
(一) (被告大泉建設)
被告大泉建設は、競売手続における債務者として、原告の賃借権が被告農協の抵当権に優先することを早期に執行裁判所に報告すべきであり、優先関係を判断することができないとしても、原告が本件貸室を賃借し占有していることについて、その始期も含めて報告すべきであったにもかかわらず、執行官から送付された占有照会書に回答せず、本件共同住宅の現況調査後である平成七年五月一五日に至るまで執行裁判所への報告を怠ったために、担当執行官は原告の賃借権を認識した上で現況調査をすることができなかった。また、原告に対して競売開始決定がなされたことを同月まで告知しなかったため、原告が本件競売事件において本件賃借権を早期に主張する機会を失わせた。
(二) (被告農協)
被告農協は、競落人として自己の判断で本件共同住宅の権利関係や占有状況を調査すべき義務を負っていたにもかかわらずこれを怠り、原告が本件貸室を賃借し占有していることを看過して、本件共同住宅を取壊し本件書籍を廃棄処分した。
(三) (被告国)
(1) 担当執行官は、現況調査の際に、賃貸人であった被告大泉建設に問い合せ、あるいは本件共同住宅を一室ずつ開錠して、占有の有無を調査すべき義務を負っていたにもかかわらず、これを怠って原告の占有を看過した。
(2) 被告大泉建設は、平成七年五月一五日に執行裁判所に対して本件貸室の賃借人がいる旨通知し、また原告も、執行裁判所から送付された審尋書に対して、契約更新後の賃貸借契約書及び賃料振込書の写しを添付して、本件貸室を昭和五八年二月一二日から賃借している旨回答したのであるから、執行裁判所は、本件貸室の占有状況について再調査を命じ、あるいは原告を審尋するなどして本件貸室の賃借権及び占有の有無について調査を尽くす義務があったにもかかわらずこれを怠って、原告の占有及び賃借権を看過した。
四 被告大泉建設の主張
被告大泉建設は、原告の賃借権が被告農協の抵当権に優先することを執行裁判所に報告する義務を負うものではない。
被告大泉建設は、執行官から占有照会書を受領しておらず、売却実施通知書の送達後、原告に競売開始決定がなされたことを通知し、執行裁判所にも原告の賃借権の存在を通知しており、十分な対応をとっているから、過失はない。
五 被告農協の主張
(一) 被告農協は、入札前及び競落後取壊前それぞれに二、三回ずつ担当職員を本件共同住宅に派遣して、その現況を調査させた。その結果、本件共同住宅は一、二階とも全室無施錠であって、本件貸室内には読み捨てられた漫画本が若干散乱していたにとどまり、本件書籍及び備品は存在しなかった。
(二) 被告農協は、競落物件の権利関係及び占有状況について格別の調査義務を負うものではない。
仮に買受人に右調査義務があるとしても、その内容は、現況調査報告書及び物件明細書の正確性を前提とした上で、調査権限がなく調査能力の不十分な私人として可能な調査をする義務にとどまるところ、被告農協が右(一)のとおり調査した結果、本件共同住宅には住居としての占有使用が認められず、前記一4の現況調査報告書及び物件明細書の記載と矛盾する徴表がないことを確認しているのであるから、被告農協は右調査義務を尽くしている。
六 被告国の主張
1 原告は、現況調査報告書及び物件明細書の記載について執行異議の申立てをすることができたにもかかわらず、これを怠ったのであるから、原告に何らかの損害が発生したとしても、国に対してその賠償を請求することはできない。
2 執行官及び執行裁判所の過失は否認する。
3 仮に原告主張のとおり損害が発生したとしても、現況調査報告書や物件明細書には実体法上の権利関係を確定又は形成する効力はなく、その記載内容が実体関係に影響を及ぼすことはない。
また、執行官による現況調査は、その時点での占有状況を対象とするものであり、占有状態は変化しうるものであるから、買受人は、買受後に客観的に存在する占有や権利関係に応じた法的手続を執るべきであって、担当執行官が現況調査時に空き家である旨の現況調査報告書を作成し、執行裁判所が同趣旨の記載のある物件明細書を作成したことと、原告主張の損害との間には法律上の因果関係は存在しない。
七 争点
1 本件書籍の所有関係
2 損害発生についての各被告の責任
3 損害額
第三 当裁判所の判断
一 甲五、六の1、2、3の1ないし3、乙三、四、丙一、丁一、二、大嶋勝証言、木下敏治証言、原告代表者尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
1 本件共同住宅は、昭和三九年一〇月三〇日に建築された木造セメント瓦葺二階建建物であり、各階四室ずつから成る共同住宅であった。
原告は、昭和五八年から本件共同住宅二階の本件貸室を賃借し(以下「本件賃貸借契約」という。)、当初は木下の仕事場として使用していたが、昭和六〇年ころからは漫画及びアニメーション制作の資料室として使用し、木下らが週に一回程度訪れていた。本件貸室内には、合計約三〇〇冊の古書が詰まった本棚二竿及び段ボール箱があり、畳の上には参考書類が積み重ねてあった。押入れの中には掃除機、布団及び毛布二組が入っていた。また、同室にはストーブがあり、冬場は室内に置いていたが、それ以外の季節には押入れにしまっていた。
平成六年初めころ、本件共同住宅の電気とガスの供給が止められたが、木下は昼間に資料を取りに行くなどして、本件貸室を使用していた。
2 被告大泉建設は、本件共同住宅等を所有しており、昭和六三年三月一〇日、被告農協のためにこれらの不動産に抵当権を設定した。平成六年一月二一日、同被告の競売申立てにより、本件共同住宅等について競売開始決定がなされた。
3 本件競売事件の担当執行官A(以下「担当執行官」という。)は、本件共同住宅の現況調査に先立ち、被告大泉建設に対して本件共同住宅の占有照会書を発送したものの、回答書は同被告から返送されなかった。
担当執行官は、平成六年二月二一日に第一回目の現況調査として、本件共同住宅の外観を写真撮影した。担当執行官は、同年三月九日、再度の現況調査のために本件共同住宅を訪れ、全室施錠されていたことから、一階の四室を技術者に開錠させて立ち入った。一階の入口から三番目の居室には一九八七年一月のカレンダーがかけられたままで、中古小型冷蔵庫、中古石油ストーブ等無価値と見られる動産が若干放置されていたが、埃が積もっており、住居として現に使用されている形跡は認められなかった。一階の他の三室は完全な空室であった。本件共同住宅の二階の廊下には、本件貸室の隣室の玄関前に大量の新聞紙等が溜まり通行を阻害していた。担当執行官は、本件貸室を含む二階の四室については、外部を視認して各室とも使用されている形跡はないと判断し、一室ずつ開錠して立ち入ることはしなかった。そして、現況調査報告書に、本件共同住宅について、「一、二階合計八室の木造アパートで入口に豊荘の表示があり、プロパンガスの栓は全部外されている。全室施錠されていたので、一階を開錠立入りした。」「二階については、出入口下足入、便所、廊下を含め、各室を外部から視認したが、靴、スリッパ等もなく、各室とも使用している形跡はうかがえなかった。」、「空家である。」と記載し、同報告書を同年一一月三〇日に執行裁判所に提出した。
4 被告大泉建設は、平成七年五月九日ころ、本件共同住宅が競売に付されたこと、ついては賃料等を振り込まないでほしいこと、敷金を返還したいこと、爾後は競落人との間の契約となることを記載した書面を原告に送付し、原告は、右書面によって初めて本件競売の事実を知った。これに対して、原告は、同月二五日ころ、被告大泉建設に対して、競落人が決まっていない以上、同年六月以降も同被告に対して賃料を支払う旨記載した手紙を送付した。
5 執行裁判所は、同年四月二一日に、本件共同住宅等についての物件明細書を作成した。同物件目録明細書中の本件共同住宅の賃借権欄は、斜線で抹消されていた。
同年五月一五日に至って、被告大泉建設から、前所有者が原告に昭和五八年三月一日以降本件貸室を賃貸しており、同被告が賃貸人たる地位を承継している旨の通知書と、平成五年一月一〇日付の賃貸借契約書(期間は平成五年三月一日から平成一〇年二月末日までの五年間とするもの)の写しが送付された。そこで、執行裁判所が平成七年五月二二日に原告に対して審尋書を送付したところ、原告は、同年六月八日、本件貸室を昭和五八年二月一二日から賃借しており、平成七年二八日に、期間を平成七年三月一日から二年間と定めて本件賃貸借契約を更新し、現在も使用している旨の回答書、平成七年三月一日付の賃貸借契約書(期間は同日から平成九年二月末日までの二年間とするもの)の写し及び平成五年一二月以降の賃料振込明細書の写しを執行裁判所に送付した。
以上の経緯を踏まえて、執行裁判所は、同年六月九日に、付記事項として「有限会社きのプロダクションが賃借権を主張するが、差押時の占有は認められない。」と物件明細書に追記した。
その後期間入札手続が進行し、平成七年七月二〇日に被告農協の買受申出に対する本件共同住宅等の売却許可決定がなされた。
原告の木下は、同年夏ころ本件貸室に入室したが、以後本件共同住宅が取り壊されるまで、本件居室を訪れなかった。
6 大嶋建装の大嶋勝(以下「大嶋」という。)は、被告農協から本件共同住宅及び隣接建物の解体工事を請け負い、平成七年一二月末ころ、本件共同住宅に立ち入ったが、中には施錠されていない居室もあった。大嶋は、ブレーカーを落とし、同室の奥にある水道から防塵用に水を引くため、二度にわたって本件貸室に入室したが、その際、本件貸室内には、書籍が五、六〇冊疎らに入った本棚が一竿あり、畳の上には書籍一〇冊程度が散乱していた。また、他の居室よりは少なかったものの埃が積もっており、冬季であったがストーブは室内に出されていなかった(なお、右の認定に対して、被告農協の内田敏行(以下「内田」という。)は、本件共同住宅は人気がなく、周囲は雑草が生い茂り、不審者が入り込んで失火等が発生する心配があったことから、大嶋の入室に先立つ同年五、六月ころ本件共同住宅を数度見回ったが、各居室はいずれも施錠されておらず、本箱や保管されている書籍等は置かれていなかったと証言する。しかし、同証言によっても、内田が本件共同住宅の八室全部のドアを開けて室内に立ち入っていたとは認められないこと、内田は駐車場に放置された自動車の撤去及び隣接建物に置かれていたカートンボックスの処分の際に、ついでに本件共同住宅を見回ったものであり、不審者ないし不審物がないかどうかの確認に重点を置いていたのであって、室内の残留物について必ずしも注意深く見ていたとはいえないことなどにかんがみれば、本件貸室に書籍の入った本棚等が置かれていた旨の前記大嶋証言のほうが信用性が高いというべきである。)。
7 大嶋は、平成八年一月一一日に本件共同住宅を取り壊し、残置されていた書籍等を焼却して処分した。
木下は、同年二月に本件共同住宅の跡地を訪れ、本件共同住宅が取り壊されたことを知った。
二 争点1について
木下証言及び原告代表者尋問の結果によれば、本件書籍は木下が古本屋で買い集めたものであり、木下個人が通信教育及び漫画制作に使用していたほか、原告のアニメーション制作の資料としても使用しており、原告は木下が立て替えた本件書籍の購入代金を同人に支給していたことが認められる。したがって、本件書籍はすべて原告の所有に属するとみるのが相当である。
三 争点2について
1 被告農協の責任
(一) 本件貸室内の動産の処分について
買受人が競売物件を競落して取り壊す時点の占有状況は、現況調査が行われた時点の占有状況と異なることもあり得るから、買受人は、自らの責任で占有状況を判断し、他人の所有物が存在する場合にはしかるべき処置をとる必要があることはいうまでもない。
ところで、前記のとおり、本件共同住宅を取り壊す時点では、古書五、六〇冊が疎らに入った本棚一竿と、畳の上に散乱していた古書一〇冊程度が本件貸室内に残っていたに過ぎないこと、木下ら管理者は本件貸室に約半年間立ち入っておらず、本件貸室はその間の第三者の侵入により相当程度荒廃し、書籍の大半も第三者が右侵入の際に持ち出すなどしたため滅失したものと推認されること、本件共同住宅全体も前記一のとおり荒廃していたこと、現況調査報告書及び物件明細書にも、原告が占有していることを窺わせる記載はないこと等にかんがみれば、被告農協が、本件書籍や備品について第三者が所有権を放棄したものと判断したのはやむを得ないというべきである。
したがって、同被告が本件貸室内の動産を廃棄処分したことについて、過失は認められない。
(二) 本件共同住宅の解体による本件賃借権の消滅について
被告農協は、物件明細書の記載により、原告が本件貸室の賃借権を主張していることを知り得たが、物件明細書に原告の賃借権は認められない旨記載されており、その後、原告や被告大泉建設から連絡がある等原告の賃借権の存在を窺わせる新たな事情もなかったのである。さらに、前記(一)のとおり、本件貸室内の書籍及び備品の所有権は放棄されていると判断してもやむを得ない状況であったのであるから、本件貸室には占有者がいないと判断しても、過失があるということはできない。
したがって、被告農協が、売却により効力を失わない賃借権は存在しないと判断した上で本件共同住宅を取り壊したことについて、過失は認められない。
2 被告国の責任
(一) 被告国の違法行為
共同住宅においては一室ずつ占有状況が異なるのが通常であるから、各居室に立ち入って現況を調査することは、共同住宅の現況調査をする際の基本的な方法であるにもかかわらず、担当執行官は、前記一3のとおり、本件共同住宅二階部分の現況調査として、外付階段を上った二階の入口とその脇にある下足箱、共同便所、二階の廊下及び二階各居室を外部から視認しただけで、本件貸室に立ち入ることなく、同室の占有はないと判断したのであり、右の基本的な調査方法を講じなかったことが認められる。
ところで、担保権の実行としての不動産競売においては、目的不動産の登記簿謄本の調査と執行官による現地調査などによって、手続の迅速な処理を図りつつ、目的不動産についての権利関係を正確に把握するというシステムが採られているのであるから、現地調査は権利関係の把握にとって極めて重要なものである。しかも、競売物件の占有状況の判断は、建物の評価等の点で買受人の利害に影響するところが大きいばかりか、占有者に対する関係でも重大な影響を及ぼすものであるから、競売物件の占有状況を調査するための基本的な調査方法をとらなかった場合には、特段の合理的根拠がない限り国家賠償法上の違法性が認められるというべきである。
そこで、担当執行官が本件貸室に立入調査しなかったことについて、特段の合理的根拠が認められるかどうかを検討すると、前記一3のとおり、担当執行官が現況調査をした際、本件共同住宅のプロパンガスの栓は全部はずされており、一階の入口から三番目の部屋には一九八七年一月のカレンダーがかけられたままで、中古小型冷蔵庫、中古石油ストーブ等の無価値と見られる動産が若干放置されていたが、埃が積もっており、住居として現に使用されている形跡はなかったこと、一階の他の居室は完全な空室であったこと、二階の廊下には大量の新聞紙等が溜まっていたこと、居室兼作業所として使用されていた隣接建物は、一階南側が倉庫として使用されていたほかは空家であったこと、隣接建物の敷地の南隅にあった小屋は廃屋状況であったことが認められる。
しかしながら、右の諸事実を考慮しても、一階の各居室を技術者に開錠させた際に、二階の各居室を開錠させて容易に立ち入ることが可能であったこと、現況調査当時、本件共同住宅は全室施錠されており、各居室ごとに使用状況が異なることが予想されたこと、現況調査報告書に添付されている写真を見る限り、使用が不可能であると判断されるほど荒廃していたわけではないこと、被告大泉建設から本件共同住宅の占有状況についての回答がなく、本件貸室に占有者がいないことを裏付ける資料はなかったため、本件貸室への立入調査が占有の有無の判断に必須のものであったこと等にかんがみれば、立入調査をせずに占有がないと判断したことについて、特段の合理的根拠は認められないといわざるを得ない。
したがって、担当執行官の本件貸室についての現況調査には、国家賠償法上の違法性が認められる。
そして、前記一5のとおり、平成七年五月に原告と被告大泉建設双方から、本件賃貸借契約が存在し、現在も原告が本件貸室を占有している旨の上申がなされたものの、執行裁判所は、執行官に立入調査を命じて本件貸室の占有状況を再調査させることなく、現況調査報告書の記載に従って、原告の占有が認められない旨を物件明細書に付記したのであって、このような執行裁判所の処分が国家賠償法上違法と評価されるかどうかはともかく、執行裁判所が執行官の違法な調査を断ち切らず、かえってこれを確固たるものにしたことが認められる。
(二) 被告国の違法行為と損害との因果関係
(1) 本件貸室内の動産の廃棄処分について
現況調査の時点では、本件貸室が施錠されていたことから、第三者が侵入して書籍を持ち出すなどしておらず、合計約三〇〇冊の書籍が詰まっていた本棚二竿等が残っていたことが推認されるものの、本件共同住宅が解体された時点では、書籍が五、六〇冊入った本棚一竿と床の上に散乱していた書籍約一〇冊が残っていたにとどまり、その間に第三者の行為により本件書籍の大半が紛失したことが認められるのであって、被告国の行為と右紛失との間には因果関係が認められない。
他方、大嶋が本件共同住宅を取り壊した際に処分した書籍及び備品については、被告農協の責任が認められないことは前記1のとおりであるが、現況調査報告書ないし物件明細書に、原告が差押時ないし現況調査時に本件貸室を占有していた旨の記載があれば、被告農協が原告又は被告大泉建設に問い合わせるなどして、占有の有無を確認することも考えられるところであり、また、そうしないとしても、残置物について、所有権が放棄されたものではなく、原告の占有物であるとの推定が働くから、被告農協が廃棄処分しなかった可能性が高いとみるのが相当である。
したがって、担当執行官の違法な行為と本件貸室内の動産が廃棄処分されたことによる損害との間には、相当因果関係が認められる。
(2) 本件賃借権の消滅について
前記(一)のとおり、差押時に原告の占有が認められる旨の記載が現況調査報告書ないし物件明細書に記載されれば、被告農協が原告の占有を認めて、本件共同住宅を取り壊す前に、原告を相手方として引渡命令の申立てをし、本件賃借権の有無が改めて審理されるものと考えられるから、原告は本件賃借権をより明確に主張立証して権利を保全することが可能であったというべきである。
したがって、担当執行官の違法な行為と本件賃借権の消滅との間には、相当因果関係が認められる。
(三) 被告国の反論について
被告国は、原告が現況調査報告書及び物件明細書の記載について執行異議の申立てをすることができたにもかかわらず、これを怠ったのであるから、原告に何らかの損害が発生したとしても、国に対してその賠償を請求することはできないと主張する。
確かに、民事執行法は、不動産の競売事件における執行官の行為が関係人間の実体的権利関係と適合しない場合に備えて、救済手続による是正を予定しているから、民事執行法上の救済手続による是正を求めるのを怠ったために、執行官の行為により損害を被ったとしても、特別の事情がある場合を除き、その賠償を国に対して請求することはできないものと解するのが相当である。
しかしながら、現況調査報告書及び物件明細書に原告の占有及び賃借権が認められないと記載されたことについて、原告は執行異議の申立権を有しており、執行異議の申立によって救済を求める機会がなかったとはいえないとしても、執行異議により救済を受ける具体的な可能性を考慮する必要があるというべきである。本件では、原告において競売申立てがなされていることを知ったのが売却許可決定の直前であり、また、原告において本件貸室を賃借していると上申したところ、執行裁判所及び執行官から何らの調査等も受けなかったことから、右上申どおり本件賃貸借契約の存在が認められたものと理解したのももっともであると解されることにかんがみれば、執行異議手続以外に原告の救済を図る手段がないというのでは、酷に過ぎるというほかはない。そして、原告と被告大泉建設から本件賃貸借についての上申がなされた時点では、未だ売却許可決定もなされておらず、再調査をして現況調査報告書及び物件明細書の誤りを是正することが可能であったことも併せて考えれば、国家賠償請求を認めるべき特別の事情がある場合に該当するとみるのが相当である。
したがって、原告が執行異議の申立てをしなかったことによって、被告国に対する賠償請求が否定されるものではない。
3 被告大泉建設の責任
原告は、被告大泉建設が執行裁判所に対して原告が本件貸室を賃借していることを通知する時期が遅すぎて、現況調査の際に本件賃借権の存在が明らかにならず、適切な調査がなされなかったために、執行裁判所が違法な判断をしたと主張する。しかし、担当執行官としては、前記のとおり、賃借権の有無について何らの資料がない場合には、共同住宅の各居室に立入調査をして占有の有無を個別に判断すべきであったのであり、被告大泉建設の通知が遅れたとしても、そのことと担当執行官が判断を誤ったこととの間には相当因果関係が認められない。また、被告大泉建設は、原告が本件貸室を賃借していることを売却許可決定前に執行裁判所に通知しており、本件貸室の占有状況を再調査した上で、現況調査及び物件明細書の記載を訂正することは可能であったという点でも、被告大泉建設の通知が遅れたことと現況調査報告書及び物件明細書に前記のとおりの記載がなされたこととの間に相当因果関係があるということはできない。
したがって、被告大泉建設の通知が遅かったことについて、不法行為は成立しない。
四 争点3について
1 本件書籍及び備品の滅失による損害
(一) 財産的損害
甲一〇ないし一二、木下証言及び原告代表者尋問の結果によれば、本件貸室内に置かれていた本件書籍は、「近世三百年史」、「画報千年史」、「歴史読本」等の古い専門書であり、担当執行官の違法な行為によって滅失したと認められる本件書籍合計六、七〇冊を購入した際の領収証は残っていないが、木下に支払った本件書籍代を領収証を見ながら帳面に記載した際の記憶として、一冊平均一万五〇〇〇円程度であったというのであるから、本件書籍合計六、七〇冊の価値を九〇万円と評価するのが相当である。なお、前記のとおり、担当執行官の違法な行為及び執行裁判所の違法な処分によって本棚一竿が滅失したことも認められるが、その価値については何らの立証もされておらず、かえって木下証言によればその本棚にはほとんど価値がなかったことが認められるから、これを損害として算定することはできない。
(二) 精神的損害
木下証言によれば、本件書籍は木下が約一五年間かけて収集したものであり、再度収集するには相当の労力を要することが認められるから、木下個人の精神的損害は認められ得るとしても、法人である原告が精神的苦痛を受けたものとは認められない。なお、木下個人の精神的損害のほかに、原告自身に財産的損害では評価し尽くされない損害が生じたと認めるに足りる証拠もない。
よって、原告の精神的苦痛を理由とする損害は認められない。
2 本件賃借権の消滅による損害
本件競売事件において作成された本件共同住宅等の評価書によれば、競売市場修正前の本件共同住宅価格及び敷地権価格は、合計五〇七〇万円であることが認められる。ところで、借家権価格は、一般に建物価格及び敷地権価格の二〇パーセント程度と評価される例が多いことから、原告は、全八室から成る本件共同住宅の一室である本件貸室の借家権は、五〇七〇万円の八分の一に二〇パーセントを乗じた一二六万七五〇〇円であると主張する。しかし、借家権が建物価格及び敷地権価格の二〇パーセント程度と評価されるのは、借家法又は借地借家法の適用により、期間の定めがある場合であっても更新拒絶には正当事由が必要であるなど、長期間にわたって建物を使用できるという点を重視したものであるから、借家権の存続期間について右と異なる事情がある場合には、建物価格及び敷地権価格の二〇パーセント程度と評価することは相当でないというべきである。
甲四、木下証言によれば、本件賃貸借契約の契約期間は、平成七年三月一日から平成九年二月末日までであったことが認められる。そして、本件共同住宅を競落して賃貸人となった被告農協は、本件賃貸借契約の存在を知っていたとすれば、同契約の更新を拒絶し、右契約期間終了時に原告に対して明渡しを請求することが予想されるところ、本件貸室は専ら資料室として使用されていたものであり、本件共同住宅の他の居室はすべて空室であったこと等にかんがみれば、更新拒絶には正当事由が認められると解するのが相当である。そうすると、本件賃借権は、本件共同住宅が取り壊されず賃貸期間の終了によって消滅した場合と比較して、一年足らず早く消滅したに過ぎないということができるから、本件貸室の借地権価格は、原告主張の価額よりも著しく低廉なものであったというべきである。
以上の事情を総合考慮すれば、本件賃借権消滅による損害は、五万円と評価するのが相当である。
五 結論
以上によれば、原告の請求は被告国に対して九五万円の損害賠償を求める限度で理由があるからこれを認容し、同被告に対するその余の請求並びに被告大泉建設及び被告農協に対する請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文、仮執行宣言につき同法一九六条一項、同免脱宣言につき同条三項をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官南敏文 裁判官小西義博 裁判官納谷麻里子)
別紙<省略>